
何かを達成したいと思ったり、何かを得たいと思うのは人間の自然な欲求だ。
喜怒哀楽を感じるのも普通である。
それは悪いことではない。
適切な成果や適切な娯楽を得、安心や心地よさを選ぶのは、人生にとって良い経験である。
けれど、その欲求の源がエゴによるものなのか、はたまた魂によるものなのかによって、同じ結果でも実は見えない波動レベルで大きな差となっている。
前者ではどれほど偉大なことを達成しても、煩悩潜在印象が積まれる罪を得、煩悩の種をどこかで必ず刈り取らなければならない。
後者は私利私欲による行為ではなく、魂という宇宙の神聖な声を尊重しているので、煩悩潜在印象の一部が滅し自身の業を果たしたことになるのだ。
では、欲求の源の見極め方は何なのか。
それは、欲に対する執着。
欲望を抱いた対象を得ても得なくても、自分は豊かで幸せなのだと思えるかどうかだ。
何がなんでも手に入れてやろうと、欠落思考による焦りや不安、怒りから力づくで現実を動かさなければならないのなら、それは宇宙の流れと調和していない。
逆に、楽な気分で宇宙の流れに身を委ねていると、本当に必要な行動は自然に起こる。
今世、自分の人生で手に入れることになっているものならば、然るべきタイミングでもたらされる。
ただしこれは、惰性や怠慢、敗北者的視点ではない。
自分を創造し今に生かしている、この人生のすべてを自分以上に知っている高次元の存在に身を委ねるという、とても神聖な行為をしているだけ。
何かに意識が向き、想いを抱くのはいい。
その気持ちを素直に受け入れる。
そして、その感覚そのものを、捧げるのだ。
情熱や渇望、強欲や羨望を高次元の存在に捧げ切ると、それを心底必要としているかどうか、自分でも分かるようになる。
魂の声によるものならば、想いを捧げ切った後、努力ではなく流れによって物事が動き始めていく。
何かを達成したり、何かを得てもなお心が満たされず、焦燥感、空虚感、虚無感など、心に平穏が訪れないのであれば、それはエゴによる行為を見直すとき。
気づいた時から始めても遅くはない。
エゴからなるものではなく、魂は何を欲しているのだろうと耳を傾けようとするその姿勢そのものが、内なる波を整え、宇宙本来の流れと共鳴し、その者の人生にとって必要な幸を、存分に享受できるようになっていく。
その頃には、行為にも結果にも執着しなくなるので、更に煩悩潜在印象が滅せられ、魂の自然な輝きが解き放たれるだろう。
すると、その者にとって最も望んでいたことが、叶っているものなのだから🍀




