「どれにしようかな、かみさまのいうとおり」

 

幼い頃、何かを選ぶ時にはこの言葉を言いながら選択肢を順々に見て、言葉が言い終わった時に見ていたものに決めていた。

遊び感覚ではあったものの、私利私欲ではなく神の導きを尊重していたことに驚かされる。

 

何かに導かれるという経験は、私だけに限らないだろう。

誰でも幼い頃は無意識に使っていたのだ。

神の導きを。

 

神というのは現世利益的な神ではなく、自分を創造し生かしている高次元の存在のこと。

思議することが不可思議な宇宙の流れをも成している根源的実在。

姿形のない根源的実在の中で、万物は生じ変化し滅する一時的な現象であり、宇宙の流れとともに生じた束の間のエネルギーだ。

 

だからこそ、日常のあらゆる場面で、エゴで物事を強引に決めずに神聖な流れに身を任せた方が、自分にとって良いのはもちろんのこと、宇宙全体にとっても高次元の存在にとっても良く、調和が保たれるということ。

高次元の存在による崇高な計画に順応していることになる。

 

神の導きに任せるという純粋な感覚を、子供の頃は持っていても大人になるにつれて忘れてしまう。

内なる感覚よりも損得勘定や固定観念、見栄といったエゴで論理的に物事を見たり、判断しがちになっていく。

神聖な内なる感覚を信じることよりも、自分の外側に真の指針があると思い込んでしまう。

 

著名人が言っていたから、こういうしきたりだから、普通はこうだからなどと社会の流れに惑わされ、エゴを超越した力に頼ることをしなくなってしまうのは、とても勿体無いことだ。

 

神の導きに従うというのは、受け身でも惰性でも妥協でもない。

崇高な流れに身を任せ、神の欲する物事を欲するという積極的な生き方。

 

誰の中にも、真の指針がある。

今世、この身体での人生を通して成すべき業、果たすべきお役目を全うする道。

それはまさに、神様の言う通り。

 

神の導きが身体を通して、いつでもどこにいても、真我である魂の自分にとって必要なメッセージを送ってくれているということなのだから🍀

 

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