おおよそ、っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

 

マタイによる福音書にあるこの言葉について、以前執筆したことがあった。

今読み返してみると、当時は表面しか見えていなかったなと感じたため、今回は再度執筆してみたと思う。

 

持っている人は与えられて豊かになるというのは、この世的な視点の物事ではない。

 

他の動植物ではなく人間として生まれた真の理由、この世的な肩書を超越した自分という存在の本質、宇宙そのものの本性という真理を聴く準備ができた者は、真理が与えられるということなのだ。

 

目に見える物質的なものや、何を所有しているか、何を達成しているかという無常の奥にある流れ。

この神聖な流れを観よう、感知しようと気づいた者には、それが成されるための手段が与えられる。

 

けれど、目の前に真理があるのに聴けないと、その機会を逃してしまう。

表面的なことしか見ることができず、損得勘定や私利私欲が優り観る準備が整っていなければ、聴く機会をも取り上げられてしまうということ。

感覚器官を誘うあらゆる物事に翻弄され、束の間の幸福感や優越感、満足感に浸りつつ、何度も何度も煩悩潜在印象を積み重ね、真理を悟ることなくまたこの世を去り、苦楽という生死の輪廻を繰り返してゆく。

 

幾千回もの転生を経た魂の中で、この世的な知識や技術、富、名誉、権力だけでは解決しない問題に直面し、答えを知りたいと欲する稀有な者がいる。

それは、この世的な乱気流の奥にある核心。

 

すると、その者の前には真理を学ぶための叡智がやってくる。

だから、っている人は与えられて、いよいよ豊かになる。

内なる光を思い出したから。

 

真理眼がまだ覚醒されていない者は、内なる光を思い出す機会すらも(持っているものまでも)取り上げられるであろうということなのだ。

 

人は前世、そのまたずっと前の記憶を覚えていないだけで、何度も何度も生まれ変わっている。

前世からの何がしかの潜在印象が残っているから、その印象を滅するにふさわしい姿形に宿り、学修に適した場所に生まれ出、その時々で潜在印象という自身の浄化、そして魂の本来の光を解き放つために必要な出来事と出逢うようになっているのだ。

 

誰にでも等しく与えられているものがある。

持っていることに気づくかどうか。

 

空(から)でこの世に来、再び空でこの世を出るのか、宇宙の究極の真理を学び、確信に基づく信頼を懐いて今世の業を果たし終えるのか。

それは、実年齢とは比例しない。

その魂次第だ。

 

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