人と関わることが苦手。

それは、悪いことではない。

 

幼少期から人と関わることが苦手なこともあれば、何かのきっかけで人が苦手になったり、一時的にそのような心境なだけで、時と場合によっては人と楽に関われる瞬間もあることだろう。

 

どのような感覚であれ、自分を否定する必要はない。

内なる感覚を無理に証明する必要もなければ、誰かを説得したり、誰かの考えに染まり自分に仮面をつける必要もない。

 

もしかするとあなたの魂は、幾千回もの転生を経て、この世的なことを俯瞰して見ている老成した魂なのかもしれないのだ。

 

これは、実年齢とは関係がない。

宇宙をも成し、言語領域を超えた神聖な感覚が生まれながらにして備わっており、物事の背後にある崇高な流れを無意識に感じ取るという高い周波数を放っていることで、この世的な波動領域を超越しているだけ。

 

だからこそ、いつも内側に何かを感じている。

家族や大切な人がいたとしても、自分の時間や空間も大切にしたいと思うのだ。

 

それはごく自然なこと。

今から2000年も前の時代を生き、この世的な煩悩による私利私欲の渦を俯瞰しながら悟りに至った賢者たちの書物を読むと、人里離れた場所に住んだり、社交よりも一人の時間の中で目を閉じて静寂な時間を過ごしたり、感覚器官を乱す物事を手放したりと、私生活で必要なことはしつつも、意図的に心を平静にしていたことが分かる。

 

つまり、人が苦手とか、人が嫌い、誰かといるよりも自分一人でいた方が楽という感覚は、悪いことではない。

一人の時間を確保していないと、究極的には心と身体、そして脳内より湧き出る思考は落ち着かないようになっているのだから。

 

誰かといる時よりも一人の方が気持ちが楽で、本当の自分を出せるのは、まさにあなたの本性そのもの。

周りの反応や社会のしきたり、世間体などといった枠を気にして偽っている外側の鎧が、外れているのだ。

 

周りとうまくやっていくことも、社会的な視点から見れば時には大事である。

けれどそれは、お互いが善性要素を持ち、心遣いがあればこそ。

なんでもかんでも詮索しあったり、必要以上に長時間一緒にいなくてはいけないわけではない。

 

物事を俯瞰して見ている老成した魂は、広く浅く繋がることや、「〜だから〜しなければならない」といったしきたりや建前、なんとなく人肌恋しいからみんなと一緒にいるといった感覚よりも、深度や平静さ、平穏を必要としているのだ。

 

 

すべてのエネルギーは静寂から始まり、いつでも調和を為して流れている。

あなたの感覚も、この宇宙意識よりなるエネルギーそのものだからの大切に。

 

あなたは、ありのままのあなたを生きればいい。

人が苦手と言いつつも、時には買い物をしに出掛けてそこで人と関わっていたり、ご近所さんに挨拶をする機会があったり、私生活を送るための社会的な営みをしたりなど、あなたなりにうまくやっているのだから、それを自分で褒めてあげよう。

 

自分を愛し、許し、受け入れる。

それは、あなたを創造し生かしている高次元の存在を愛するということ。

 

人が苦手であってもいい。

転生を重ねて老成した魂ならば、愛と光の視点で、もっと楽に生きればいいのだ。

 

心が楽になれば、人が苦手という意識のフィルター自体も次第に薄まっていくだろう。

自分を大切にしつつ、他者の時間軸や価値観も尊重できるようになっていく。

 

自分を無理に変えたり、他人の考えを変えようとしなくていい。

 

ただ、ありのままの相手を許容し、ありのままの自分を受け入れればいいのだから🍀

 

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