歓喜することであれ喪失することであれ、好きか嫌いか、得か損かに関わらず、それぞれの人生で起こるべきことが、日々起こるべきタイミングで起こるべくして起こっていく。

その時、『目に見えるものが全てではない』という考え方があると、どのような感情感覚を感じても最後には肯定的で前向きな捉え方に変わる。

 

例えば、あなたと関わる誰かとの間で何か問題があったとしても、あなたに見えている相手の姿は、あらゆる面がある中でのほんの一面であり、その人の全てではないと気づけるのだ。

 

その人固有の背景があり、事情があり、今起きている出来事の中でたまたま表出されたほんの一面。

言葉でも行動でも、今見えている姿とは全く異なる面も持っているものである。

 

そう考えると、何事もお互いさまだなと思えたり、誰にでも得意不得意や利点欠点があるものなのだと思い出すことができ、寛大になれる。

 

このように、日常で起こる出来事に善性的な要素で対応するべく『目に見えるものが全てではない』という考え方は大いに役立つ。

だが、今回の主題はこれではない。

 

あらゆる行為を、どのような意識で行なっているかということ。

それは目には見えないのだ。

 

何かの結果に執着し、何がなんでもそれを手に入れよう達成しようと私利私欲のなすままに行為を行えば、たとえ結果を得たとしても煩悩を積む。

また、「こうでなければならない、こうであるべきだ」という固定観念に囚われすぎて怒りや執着に満ちていると、その行為もまた、膨大な潜在印象を作り出す。

 

反対に、自分が成すべきことを無心に精一杯行い、その結果がどのようなものであっても受け入れていると、行為を行うに至った潜在印象が滅せられ、業が果たされていく。

 

つまり、どれほど偉大なことを成し遂げても、どれほどの富や地位や名誉を得ても、どれほど徳な行いをしても、その根底になんらかの見返りや結果への執着、エゴによる私利私欲の想いがあるならば、それは生まれた時よりも深い煩悩を積んでしまうのだ。

 

私利私欲に満ちた行為をしている人と同じことを行なっている人がいたとしても、意識を自分を成し生かしている存在に向け、無心に精一杯自分ができることを行なっていれば、表面的な結果が良かろうと悪かろうと、真に善性的な行為になる。

 

目に映る物事がどのようなものであれ、その行為自体を行なっている人がどこに意識を向けているのか。

それは、外側からは見えないのだ。

 

これが、『目に見えるものが全てではない』という真の意味。

 

どれだけ立派なことを言い、どれだけ世のため人のために働いているように見える人でも、どれほど人気があるように見える人でも、その人の心の奥底に私利私欲が渦巻いていれば、行為と結果によって更なる煩悩を積み、輪廻に取り込まれていく。

そして何より、当の本人は膨大な量の煩悩潜在印象のなすまま行為を行なっているにすぎないので、いつまで経っても心からの安らぎや喜び、幸せを得ることはなく、他者との比較や競争の中で常に欠落部分に目が向き、更なる煩悩による対象の獲得と、得たものの喪失を恐れ続けていくことになる。

 

反対に、自分が今世成すべきことを行なっている人は、その行為によって何を得ても得なくても執着することがない。

この世のあらゆるものが無常であり、誰よりもたらされ誰のものなのかを感知しているからこそ、行為も結果も高次元の存在に捧げ、淡々と今目の前にあるやるべきことを行うことができる。

表面的にどう見えていようとも、この世的な肩書や仕事がなんであれ、いつでも幸せであり、内なる平和と光明を感じていられるのだ。

 

 

万物の誰もが、私利私欲を超えた真に成すべきことがあり、果たすべきことがあるからこそ生かされている。

他の動物ではなく人間として生まれたのなら、人間として果たすべき業があるということ。

それは、生存本能や私利私欲という動物的な視点に留まらず、自分という唯一無二の存在から生み出される価値を、真に奉仕するお役目に与っているということでもある。

 

誰が偉いとか凄いとか、自分はああでこうで、他人はどうこうでというこの世的な視点での乱気流を俯瞰すると、平静に物事を感知できるようになっていく。

 

ほんとうに大切なことは、エゴを超越した崇高な宇宙の流れによって、調和をもって成されていくもの。

 

目には見えない流れと共鳴し、どこに意識を向けて行為を成すのか。

それは、あなたの魂が今世、何を望んでいるのか次第だ🍀

 

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