
感覚器官を満たし続けることが、この世の常だと思われている。
だが、欲望のままに感覚器官を満たすものを追い求め運よく獲得しても、その高揚感や達成感、優越感は束の間で、また別の対象に向けて心が騒ぎ出す。
願望を達成してもいつまでも心が落ち着かず、いつも不安や焦り、葛藤、怒り、空虚感、劣等感に苛まれ、内側の違和感を外側にあるもので覆い隠しては、束の間安心していく。
これが、煩悩によって行為が起こり、行為によって更なる煩悩が積まれ、その煩悩を満たすための行動へと無意識に促されていくというサイクルである。
煩悩による行為は、いつでも苦が伴う。
欲望が満たされない時の葛藤による苦、欲望を達成した後に獲得したものを失うのではないかという心配による苦、得たものが消失した時の絶望の苦というように、煩悩潜在印象に伴う行動は、最後には苦を招くのだ。
過去世からの莫大な量の煩悩潜在印象が今世のあなたの人生を形作っていて、今世積んだ煩悩潜在印象も加わることで、あなたの日々の思考と行動は、煩悩により否応なく促される。
そのため、今世意図的に煩悩潜在印象を滅していかない限り、寿命を迎えてもまた新たな身体に宿り、今とは全く違う人生で苦楽を経験しなくてはならないという輪廻を、永遠に繰り返さなければならない。
稀に、このサイクルに疑問を抱く者が現れる。
感覚器官を満たすための数多の欲望が幻夢だと気づき、その奥にある根本要素という真の豊かさを学ばなくてはならないと悟るからだ。
もっと欲しい、もっと知りたい、もっと体験したいというように、感覚器官が求めるものは際限がないばかりか、外側にあるものは常に変わり続け、真の指標は外側にはないと確信した時、この世的な感覚器官を満たすことを超越した視点が降りてくる。
自分がなぜ生まれ、なぜ人間として生きているのかという根本の視点と、マインドでは理解できない深い層にある問い、そもそもなぜ悩みがあるのかという悩みの根幹にも触れることができる。
この感覚は、静かに座り、目を閉じ、心と身体と脳内活動を完全に鎮めることでしか現れない神聖なもの。
自分の内側でしか感知することができないのだ。
万物の根底を支えている根源的実在という無限の豊かさと、自分が一体であること、いつでも広大な宇宙の流れの中にいて、誰が偉いとか凄いもなく、価値ある尊い瞬間がそこにあるだけなのだと思い出す感覚は、この世的な何かを得ても得られないものである。
自分の本性を悟った上で、行為と結果を捧げ、ゆだね、導かれる。
行動はエゴからなるものではなく自然にもたらされるようになり、結果も執着せずに捧げることにより、成功も失敗も、歓喜も喪失も、どのようなものであれ淡々と受け入れ囚われなくなっていく。
自分を成し、生かしている高次元の存在に奉仕することで、煩悩によって無作為に行動へと促されていた時とは比べようもないほどの安心感や幸福感、満足感、充足感を感じられるようになる。
執着せずに全てを捧げていると、行為をしても煩悩が積まれることはなく、自然に今世の業が果たされ輪廻から解放される。
物質世界にいる間は、今まで感じていた悩みが悩みではなくなり、新たな視点で物事を見られるようになることで感覚器官を満たし続ける乱気流に惑わされることもなく、日々が心穏やかになっていくのだ。
この世的な感覚器官を満たす物事をも凌駕する叡智が、本当は誰の中にも宿っている。
私という感覚によるエゴで、幽閉されているだけ。
あなたがあなたの本性を感知するほどに、あなたにとって本当に必要なことが満たされ始める。
それは、宇宙の流れと共鳴した合図。
宇宙は、人間の願望で動いてはいない。
エゴによる強引さを凌駕する広大な営みによるリズムとバランスの上に、調和をもって成り立っているのだから🍀


