あなたは日々、本当に自分がすべきことを行えているだろうか。

「こうした方がいいと思う」と感じることがあるのに、本音を偽り周りに合わせて声をかき消していたり、評価や評判を気にして言動を変えてしまったり、心突き動かされる物事があるのにエゴで抑え込んでいないだろうか。

 

今回は、そのようなあなたの悩みに寄り添う叡智の言葉をご紹介したい。

 

「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」(マタイによる福音書18-12~18-13)

 

ここには、社会のダルマに従って生きるか、自身のダルマに従って生きるかという人生にとても役立つ視点がある。

 

山で待っていた99匹は、この世的な規範や規律、制度、固定観念などといった枠の中で生きている、律法に従う良い羊を意味している。

迷い出た1匹は律法の中に留まることに疑問を感じ、神の働きかけに従い、自身の潜在印象による自身のダルマによって、自分らしく自分がすべきことを行うために群れから離れた者。

 

一見、この世的な視点で言えば自分勝手のようなこの1匹は、臆せず内なる声を行動に移している神の化身なのだ。

 

社会のダルマに沿って生きることも、時には必要ではある。

組織や地域、家庭、団体など、その場ごとによって秩序を保つための決まり事はあるもの。

 

けれど、社会のダルマに沿って自分を盲目的に合わせすぎていると、自身のダルマを行えなくなってしまうのだ。

内からくる潜在印象によって突き動かされる自身のダルマは、外側にある社会のダルマの枠を超越している。

 

どのような些細な出来事でもそうだ。

例えば、「知らない人から声を掛けられても無視しなさい」と言われて育った人がいたとする。

その人が大人になり、目的地の方向が分からず困っている人に道を尋ねられた場合。

 

本心では助けてあげたいと思っているのに、社会のダルマに従うと、道を聞かれても無視することだろう。

相手の装いによって助けるかどうかを判断する人もいるかもしれない。

 

けれど、はからずも自分が行うことになったことは自身のダルマだから、損得勘定なく今の自分ができることをした方が、自身の業を果たすことになるのだ。

無理をする必要はないが、どうした方がいいのか、どうするべきだと思っているのかは、外側の声ではなく内側で感じているはず。

 

あなたは毎瞬を、本当はどう生きたいと思っているのだろう。

 

あなたの内なる声こそが神の導きであり、あなたの真の指針なのだから🍀

 

おすすめの記事