どのような言葉を選ぶか、どのような雰囲気と言動をしているかで、その人が分かる。
実年齢や身につけているものといった外見的幻夢ではなく、その人の心の奥にある魂が表出しているからだ。
例えば、悪口、陰口、不平不満、噂話、愚痴が多い人、やたら大声で相手を罵声する人、相手を褒めずに貶す人などは、心の奥底では猛烈な劣等感を抱えている。
どれだけ外見を繕っても、どれだけ長い年月を生きても、何かを得てもなお満たされない心があり、誰にも理解されずにいる深い喪失感や空虚感が、心の奥底で渦巻いているのだ。
それを埋めたくて、誰かに分かって欲しくて、自分の価値を何かで証明しないといけないと緊張し恐れているからこそ、自分以外の相手や特定の何かに攻撃をすることで、束の間の安心感や優越感を得た気分になっている。
そうしないと、自分を保てないから。
誰にでも、良いところもあるし、そうではないところもある。完璧な人などいないのに、「お互い様」と愛を持って接することができないのは、いつまで経っても心が満たされず、精神が不安定であることを自分が一番実感しているから。
実ほど頭を垂れる稲穂かな。
まさに、愛ある人ほど謙虚で思い遣りがあるもの。
選ぶ言葉も愛があり、行動からも優しさが滲み出ている。
だからこそ出世していくし、どんどんその人の人生が光り輝いて、周りにいる人をも幸せにしていく。
言動には、その人の魂が宿っている。
魂が人間という身体を纏い、心身の浄化度合いと煩悩の蓄積度合いによる言動が世に放たれる。
そして、自分が蒔いた種をいつの日にかまた刈り取らなくてはならないのだ。
つまり、愛のある言動をする人は、更なる愛を感じる現実へ導かれ、愛のない言動をする人は、その時は悪口を言い合って連帯感を感じたりスッキリした気になっていても、どこかのタイミングで自分が蒔いた負の種を享受しなければならない。
一人ひとりが積み重ねている潜在印象に伴う言動が繰り返される。
それが、宇宙の法則だから。
自分が放つものがまた返ってくるのだから、それぞれが本当に得たいものを選べばいい。
愛、思い遣り、あたたかさ、安らぎ、幸せ、喜び、優しさ、豊かさ。
これらの神聖な言動は、それを放つに相応しい身体から世に放たれるのを待っている。
言動で、その人が分かる。
実年齢を超越した魂が、そのまま表出されているのだから🍀