この世に生まれる時、誰もが自我を持つ。

過去生から引き継いできた潜在印象に伴う価値観と、「私は」という行為者主体意識だ。

 

これにより、数多の価値観がこの世に表出する。

見た目や装いの違い、考え方などの違い、この世的な指標での仮初の区分や属性などが生まれる。

 

それは、自我を介してこの世に表出しているため、仕方のないことではある。

幼い頃から自我を他者の自我と突き合わせ、優劣や比較をし、互いを高め合い尊重し合うのではなく、競うことや己の欲望と感覚器官を満たし続けることが人生なのだと、無意識に思わされているからなのだ。

 

好き嫌いや、得意不得意といった感覚、喜怒哀楽といった感情が起こるのは普通のこと。

けれど、そこに執着し貪愛憎悪を抱いていることが、あらゆる苦悩を引き起こす原因になっているのだ。

 

本来は誰もが、価値観の多様性を許容することが可能なはず。

 

ありのままの自分、そして、ありのままの相手を許容すること。

ありのままの自分を愛し、尊重し、ありのままの相手を愛し、尊重する。

 

つまり、こうでなければならない、こうであるべきだという規律や規範や規定、普通はこう、一般的にはこう、年齢や性別的にはこう、などというしがらみだけに囚われず、純粋に物事を見ることができるということ。

 

相手の意見や価値観、目に見えるあらゆるものを許容せず、何か否定的な感情や怒りの感覚を覚えてしまうのは、自我に伴う煩悩という執着によるこだわりに縛られ、多様性の奥にあるものが観れなくなっているからなのだ。

 

この世に存在するもの、この世で起こることは何であれ、生じ、変化し、やがては滅する一時的なもの。

生命体に限らず、太陽といった存在すらも寿命がある仮初。

 

環境や状況、価値観の判断基準は相対的であり、普遍的ではない。

当たり前と思っている常識さえも、容易に変わりゆくものなのである。

 

 

目に見える多様性の奥には、普遍なるものがある。

 

それは、常に変化し続ける無常の流れという、宇宙の根本原理を司る根源的実在。

 

感覚器官や思考では感知できないものの、万物の起滅を成す、そこにあるとしか言いようのない至高なるもの。

 

それこそが、多様性の奥にあるもの。

 

万物の奥にあるものであり、実は、あなたという有限なる無常の姿形という、心と体の複合体の奥にある本質でもあるのだ。

 

 

多様性の奥にあるものを観知するかどうかは、その人の意志次第。

魂が、それを観る段階にあるかどうかでもある。

 

この世的な感覚器官を満たす物事をいくら体験しても、いくら獲得しても心底満足できない人。

いつも心が忙しなく、心の平安がない人。

空虚感、虚無感、漠然とした不安がある人。

生老病死という実存苦に悩んでいる人。

 

これらの人は、真理を探究する時だ。

 

目に見える表面的なことは無常に過ぎないが、その根底を支えている普遍なる叡智がある。

それは誰の中にもあり、地球やこの宇宙や、他の宇宙や、全宇宙の根底とも繋がっていて、究極的にはひとつ。

 

万物はそこに由来しているため、この真理を生まれながらにして知っているはずなのだが、自我によって曇らされ、今まで積み上げてきた煩悩も相まって、観えなくなっているだけなのである。

 

多様性の奥にあるものを観知し、自分自身なのだと覚知した時、真我が目覚め同等感が確立することにより、普遍なる平安が訪れるのだから。