
衣食住が満たされ、医療が発達し、
感覚器官を満たすことが主となった現代。
あれでもか、これでもかと新しい物や
サービスが次々に開発され、
年々とても便利で快適になっている。
100歳まで生きる可能性があるからこそ
このような資産運用をしておきましょうとか、
将来に備えてあれやこれやを所有して
おきましょうなどという動きも実に活発だ。
これをしなければ、これを食べなければ、
ここに行かなければ人生損!といった考えや
あれもしたい、これもしたい、
もっとしたい、もっともっとしたいという
歌詞も存在するくらい、人間は常に欲望を
満たす物事に囲まれながら欲望を満たす
行為に促されており、
体を健康に維持させれば100歳まで
生きることも容易になりつつある。
けれど、このままで本当に良いのだろうか。
生まれ持った天命を全うするという、自分を
自分たらしめる自身の業(ダルマ)である
真我(魂)の声を聴いた生き方をせず、
自我(エゴ)による行動を続け、我欲により
感覚器官を満たし続けるという生き方だけで。
たとえ表向きは、自分だけでなく
自分の大切な人や誰かのためにと
語り行動していても、
内面は見返りを期待していたり、承認欲求が
あったり、富や名誉や権力獲得という欲望に
塗れていることすらある。
常に感覚器官を満たすことを求め、他者と
エゴを突き合わせ、人生の最期まで他者の
エゴとの優劣、比較、競争、葛藤に伴う
不安に身を委ね、
何かを達成して優越感に浸ったり
満足感や幸福感を味わう。
しかしその幸福は束の間で、心はいつまで
経っても落ち着くことがない。
欲望対象への執着心を手放せず、欲望の
対象が得られなければ、猛烈な怒りや悔しさ、
悲しみ、絶望などに苛まれ、
どのような手を講じてでも
欲望対象の獲得に奮闘する。
外に、外に、幸福の源泉を求める。
常に自分に足りないと感じている何かを求め、
過去の心的な傷を覆うべく外側にある何かで
心を満たす。
自分を証明するものを欲し、何をしても
何を得てもなぜか満たされない葛藤を抱え
ながら行為を続ける生き方を繰り返してゆく。
それが普通だと思う人もいるかもしれないし、
生きている間、幾つになっても欲望を
満たし続けたい人もいるのかもしれないが、
生まれた時よりも煩悩を積み、宇宙の真理を
観知せず、自身の本性を悟ることもなく、
莫大な煩悩を抱えてこの世を去る生き方は、
人間としての究極のお役目を果たした
賢者から言わせれば、邪道なのだ。
私利私欲による煩悩を積み上げて100歳まで
生きようと、日々無心に精一杯自身の業を
果たしつつ100歳まで生きようと、
外見上は同じ100歳まで生きた人に
見えるが、内面は大違いだということ。
前者のような生き方は
イエス・キリストの言葉を引用すれば、
「この世に空(から)で来て
空でかえるようなもの」
なのである。
感覚器官を満たそうとする行動は動物として
ごく自然なことだが、それだけではいけない。
人間として生まれたのだから。
私利私欲を満たす他の動物と同じ行動を
していては、人間としての業を果たさずに
煩悩を積むことになってしまうのだ。
今世、誰でも今の体に宿った目的がある。
それは魂が選んだ、魂の進化向上に最も適した
乗り物であり、
一人ひとりの生まれる場所、人生に起こる
出来事が優劣なく個々に異なっているのも
それぞれの人生において、全ての瞬間が
魂の進化向上に欠かせないものだから
なのである。
魂の進化向上とは、潜在印象の浄化。
自分を自分たらしめ、今世生まれるに至った
莫大な量の煩悩潜在印象を浄化し、
滅することが魂の進化。
そして、潜在印象に伴う輪廻を脱し、
自分の本源であり帰趨である源へ回帰する
という究極の魂の向上のために
生まれてくるのである。
これが、人間として生まれた究極の業。
人間にしかできず、人間を人間たらしめる
ものである。
何世紀も昔の時代を生き、人間としての業を
果たした賢者たちは、古今東西表現の仕方は
違えど、皆一様に
「潜在印象を浄化し、
根源的実在に回帰しなさい」
という教えを語り伝えている。
現代でもその叡智が残っているのは、
それが真理だからだ。
真理を悟った賢者たちの視点から
この世を見たのなら、現代人の生き方は
罪を犯している。
日々自身を浄化せず、自身の責務を果たさず
私利私欲に塗れ、煩悩を減らすことなく
増やし続けている罪人なのだ。
とても便利で快適な時代に生きていることは
有難いことであり、感謝すべきことばかり。
だからこそ、謙虚に邁進せず
自分を自分たらしめ、自分という存在を
今にあらしめた崇高な声を聴き、
一人ひとりが自分の人生だからこそ
できること、自分だからこそできること
である自身のダルマを行うべきなのだ。
社会で決められた枠に沿った自分ではなく、
誰かが望む自分ではなく、エゴによる自分でも
なく、魂の自分、真の自分として生きる。
年齢、性別、国籍、肩書、学歴、経歴、年収、
見た目、背景、持ち物はどうであれ、
毎瞬を全身全霊で自分の責務を全うする
ことは、自分を自分たらしめる自身の業。
魂の進化向上そのものなのである。
今世の寿命を決めるのは、エゴではなく
内在者である魂。
魂の進化向上において、この身体での役目を
果たし終えた時に抜け出る。
そこに実年齢は関係ないからこそ、
生存において渇望する必要も
起滅において慄く必要もないのだ。
有限なる今という時を生きていて
息を吸っているのは、今世の業が
まだ残っているということ。
その尊い時間を、世間の目や見栄、しがらみ、
執着、執念、固定観念、嫉妬、後悔、未練、
怒り、復讐心や我欲という強欲によるエゴの
視点での行為によって生きるのではなく、
自分を自分たらしめる魂の声である
自身の業を行なって生きるならば、
この世的なあらゆる指針や指標、感覚器官を
満たす全てを俯瞰して観えるようになる。
この世の全てが無常であると観知し、
自分にとって本当に必要なものが明晰に
分かるようになるので惑わされなくなる。
あらゆる悩みも、根底から解消されていく。
なぜなら自身のダルマを行うことは、
自分の本性を悟ることでもあるだからだ。
今こそ、自身のダルマを行う時。
人間が人間としての真の責務を果たすことは、
人間を生かしている崇高な宇宙の流れと
共鳴することであり、
宇宙全体の調和が保たれるということ。
宇宙のリズムが整うほどに、適切な時に
適切な雨が降り、農作物が育ち、その恩恵を
受け取れるように、
それぞれの人生にとって、万物にとって
本当に必要なことが満たされていく。
誰もが、宇宙の構成要素。
崇高な流れの中で生じた一時的な波であり、
本源で繋がっている。
元来、誰もが裕福で豊かで幸せでいるに値する
存在であり、
内なる幸せ、内なる喜び、内なる光明を
持っている豊かさそのものであることを
思い出す時なのではないだろうか。




