
人を突き動かす原動力のように見える欲。
あれが欲しい、これをしたい、あのようになりたい、あそこに行きたい、あれを達成したいなど、人は常に欲と共にいる。
それが自我であり、エゴである。
エゴはこの世で自分自身を認識するものであるため、悪いものではない。
エゴがあるのはごく普通であり、人間や動物の自然な衝動だ。
そして、不断に変わりゆく。
その時々で、その環境ごとに、年齢によっても欲の対象が変わることもあるだろう。
趣味嗜好や目標は柔軟に変化し、何かが成就すれば束の間の安心感や達成感、幸福感や優越感を得、束の間による感情のピークが過ぎると、次の欠落部分を埋めるべく動き出す。
常に不足を感じ、もし欲の対象が得られなければ、猛烈な怒りや葛藤、不安や劣等感が生じる。
何かや誰かを蹴落としてでも、欲の対象を獲得する者もいることだろう。
これを、死ぬまで繰り返す。
他者のエゴと己のエゴを突き合わせて争ったり、競ったり、優劣をつけながら、不安と葛藤と共に欲を追い求め続ける。
これが、いわゆる普通の人が生涯で体感する “煩悩による欲の姿” である。
タイトルにもあるように、煩悩による欲の他に、“魂による欲” というものがある。
その大きな違いは、
煩悩による欲が自我
魂による欲は真我だということ。
自分を自分たらしめ、自分という存在を創造し、今まさに息を吸わせている崇高な何かが真の自分なのである。
自身の業を果たすべく、今まさに身体に宿り存在している。
この人生だからこそできること、この人生でなければできないことを行うために、今、ここにいるのだ。
その崇高な目的に向かうために自然に生じる欲は、魂による欲。
魂による欲によって生じた言動は、煩悩潜在印象を積まない。
むしろ、自身が浄化されていく。
なぜなら、魂の声を表出させ、魂の欲する物事を欲することこそが、今世生まれた真の役目だからだ。
魂による欲は煩悩による欲とは異なり、執着が生じない。
それは、獲得も消失も、成功も失敗も、苦も楽も同等だと覚知しているからこそ。
然るべき行動は自然と起こり、
いつでも、どこにいても安心感と満足感、充足感があり、その幸福感は普遍である。
時代や場所や環境によって不断に変わりゆくものは、自分の本性ではないということなのだ。
このように、自分の本性を悟っていない限り、平穏を得ることはない。
煩悩による欲ではなく、魂による欲を尊重しない限り、悩みが生じ続けるのは当然のこと。
自我と真我が、反発しているのだから。
目には見えない宇宙の神聖な流れに、同調していないのだから。
煩悩による欲と、魂による欲の違い。
感覚器官を満たし続ける無明の道を進み続けるのか、真の幸と合一する光明の道を進むのか。
自分を成した本源を思い出すほどに、自分の人生にとって本当に必要なことは、確かに満たされていくようになっているのだから🍀




