その人の本当の価値は、外側からは見えない。

見えないのだが、大概の人はこの世的な指針や指標に合わせたもので人を判断していることだろう。

 

今まで何をしてきたか、今何をしているのか、どのような肩書きを持ち、どのような地位や名誉を得ているのかといった印を意識する人もいれば、偏差値や年収といった数字を気にする人もいれば、生まれ持つ外見、装い、価値観で相手を判断する人もいるかもしれない。

 

けれど、それらは本当に、その人の本性なのだろうか。

 

もしもそれらを失ってしまったら、その人との接し方が変わってしまうのだろうか?

 

その人が今所有しているものが変化したら、その人の自己同一性も変わってしまうのだろうか?

 

明らかに、この物質世界で生み出されるエゴを介した指針や指標は一時的で、脆く、真の拠り所にはならないことが分かる。

 

 

人が、今世生まれるに至った要因がある。

 

それは、潜在印象。

 

真のあなたは、万物を創造、維持、破壊する大宇宙の根底をも成す、人智を超越した根源的実在なのだが、過去生からの膨大な量の煩悩潜在印象というヘドロが、根源的実在より派生した“あなた”という波にへばりつき、浄化しきれなかったために本源である大海原に戻ることができず、何度も何度も波として現象世界に生まれるという輪廻を繰り返しているに過ぎないのだ。

 

今世、輪廻を行うに相応しい心と体の複合体を選び、自分と認識している存在に生命を吹き込んでいるもの。それが、魂というあなたの本性。

根源的実在より派生した、無限なる豊かさそのものなのだ。

 

しかし、この純粋な魂に煩悩潜在印象というヘドロが過去生から沢山こびりついているために、この世的な仮初の指針や指標でしか物事を判断できなくなっている。

 

誰もが、この無常の物質世界での画一した指針や指標では評価できないほどの豊かさを持っているのに(豊かさそのものなのに)、表面的なことでしか、自分自身も相手も見れなくなっているのである。

 

例えば、パートやアルバイト、専業主婦(主夫)という肩書の人を侮辱している人、正社員や公務員ならばしっかり務めを果たしている人だと思い込んでいる人、自分よりも稼いでいる人や有名な人に出会うと、他の人と対応を変え諂ってしまう人、名門校を卒業した人には遜り、そうではない人には驕り高ぶってしまう人、自分の経験値や所有物をひけらかして他者を見下してしまう人、煌びやかな物を身につけている人は尊敬し、質素な人には態度が変わってしまう人もいる。

 

多様性の背後にある万物の根底を司る真理を観ることもなく、この世に表出している一時的で表面的なものしか見れない人は、たとえこの世的に立派に生きたように思えても、我欲が根底にある以上、輪廻からは解放されない。

優越感に浸り一生を終えても、煩悩潜在印象を己の中に更に蓄積させてしまうため、現象世界という輪廻の渦に埋没してゆくのだ。

 

 

自他の垣根を越え、二元性を超え、言語領域をも超えた同等感に確立した先に覚知する真理こそ、本当の自分の姿。

 

それは目には見えず、感覚器官を通して感じ取り表現することはできないけれど、魂の故郷とでも言うべき至高なる気づき意識が、自分そのものなのだと観知する領域が存在する。

 

時代も場所も問わず何世紀も前から存在し、普遍的であり、決してこの世的な仮初の指針や指標、数字や肩書きでは表現できず、評価もできない。

できないのだが、幾千回もの転生を経る中で、人間として生まれた者が最終的には至る究極の境地があるということ。

 

 

目に見えるものが、全てではない。

 

まだまだ、我欲を優先させたい動物人間が多いこの世では、感覚器官を満たすことや、エゴを介した数字や肩書きが尊重され、人や物事を判断する指針や指標として重宝されることだろう(煩悩潜在印象という、後に背負わなければならない重荷が付随しているとは知らずに)。

 

やがていつの日にか、この世で動物人間が真の人間に移行しつつある時には、意識の成熟度、魂の年齢、精神性の進化の度合い、魂の進化向上度、心身の浄化度などが具現化され、指針や指標となることもあるかもしれない。

 

もしそうなったならば、この世の価値観は一転していくことだろう。

 

自我による我欲の行為から、真我による魂欲の行為へと流れが変わっていく。

 

そこには、真の豊かさがある。

それぞれが自身の業を果たし合う、真に調和の取れた世界。

 

そのような時代が来る前に、筆者は根源的実在(涅槃、神の国と解しても同じ)に回帰するが、この無常の世で、満たしても満たしきれない欲望の根底に蔓延る何かに気づきかけている目覚めかけの魂や、多様性の奥にある真理を覚知し、この世的な指針や指標を超越した感性が覚醒している己の使命に向かう魂は、日々淡々と人間として生まれた究極の業を果たしていくことだろう。

 

結果に執着する必要もなく、優劣をつけあう必要もなく、誰もが心身共に満たされる豊かな世界は訪れる。

 

なぜなら万物は、究極的視点では根源的実在で繋がっていて、一つだから。

 

 

人間として生まれた者にとって本当に必要なのは、自身の業を果たすために必要な知識や技術と、根源的実在に回帰するための真知と実践知が学べるもの(例えば、バガヴァッド・ギーターや、ヨーガ・スートラ等の聖典)を通して得た知識と、その知識を活かして体得する智慧や技術のみ。

その他の無数にあるこの世的な仮初の物事は何であれ、どれほど感覚器官を満たすものや価値あるものであろうと、万物の根底を支えている源からすれば、全く取るに足らないものだということ。

 

この世的に見てどのような肩書きか、何をしてきたか、今何をしているか、年収はいくらで偏差値はどれくらいで、どのような知識や技術を持っていて、何を身につけていて......などというのは、真理を忘れてしまっている無知が作り出す幻夢であり、煩悩潜在印象というヘドロが作り出してしまった遊戯にすぎない。

 

感覚器官を満たす物事が溢れている現象世界。

指針や指標も数多あり、一般的にはこう、普通はこうなどという固定観念も数多あり、容易に変わりゆく。

 

それら社会を社会たらしめる社会のダルマ(業)に自分を合わせることも時には必要だが、自分を自分たらしめる自身のダルマを行うことは潜在印象の浄化に繋がり、今世生まれるに至った真の目的であるため、比べようもないほど価値があるということ。

 

 

人が普段からどこに意識を向けているかや、どのようなフィーリングを感じているかは外側からは見えず、この世的な数字や肩書とも一致しない。

 

魂にこびりついている煩悩潜在印象というヘドロを自ら取り除いていかない限り、視界は曇り続け、真にそこに存在しているものは観えてこないのだ。

 

 

他者と優劣をつけあう終わりのない不安に身を委ね、人生の最期まで獲得したものの喪失を恐れたり、更なる不足分の所有に奮闘し続けるのは程々にして、人間として生まれた業を果たそうとする魂、つまり真の人間が少しでも増えたなら、この世界はもっと豊かで平和で、真に互いを思い遣る、誠実で愛に包まれた場所になっていくことだろう。

 

誰もが内側に、真理と平和と光明を見出す力を秘めている。

 

自分の本性を、忘れているだけなのだから。