
何をしているか、何をしてきたか。
どのような姿形をし、何を身につけ
何を獲得しているかなど、
人は、表面的なことばかりを気にする。
行為者主体という自我に囚われ、肩書や
数字、結果にし執着し、目に見えるものが
全てだと言う。
それは、無常の現象世界における儚い対象を
心の拠り所としているからなのだ。
指針や指標は常に変わりゆき、なぜか心は
いつまでも平穏にならないと気づきつつも
私利私欲を満たし続けるという
始めと終わりがあるこの世的な快楽に
意識を向けていれば、
行為をするに至った煩悩潜在印象が
倍増して自分に蓄積され、
この世への束縛が強固となる。
逆に、自分という存在が今世この世に生まれ、
今も生かされているという事実や、
万物を支えているもの、生老病死という
神聖な流れの背後をも支えているものに
意識を向け、
目には見えないけれど
そこにあるとしか言いようのない
崇高な宇宙の根本原理を観知し、
この無常の世をも存在させている
不可思議なる神聖な存在の流れに身を委ね、
日々全ての行為と結果を捧げ切っていれば
今世生まれるに至った潜在印象が浄化され
根源と合一する。
純粋至福に包まれ、人間として生まれた
真の役目である根源に至ることができる。
無常の世に意識を向けて囚われ続けるのか、
宇宙をもあらしめている流れに意識を向け、
妄念から解放されて天命を全うするのか。
実に人は、確信に基づく信頼を
懐くものへと至る。
外側からは決して見えない。
その人が、どこに意識を向けているか。
それだけなのだから。




