
思いがけず怪我をした時、私はいつも4つのことを考えて受け入れている。
1つ目は、罪滅ぼし。
2つ目は、因果の焼却。
3つ目は、神の時間調整。
4つ目は、意識の振り返り。
物理的に痛みを味わうことで、自分が過去に行った過ちや、自分では気づいていなけれど誰かを傷つけてしまった痛みなど、今世に限らず過去世でも行った罪を今、刈り取っているという意識。
人智を超えた宇宙意識という叡智が、痛みを通して強制的に帳尻を合わせてくれている有難い計らいなのだと捉えている。
これらに加えて怪我をする直前、どこに意識を向けていたかも振り返る。
すると、傲慢さや初心を忘れた謙虚さの欠如、自尊心、数字や結果というこの世的な仮初の指標に自分を無理やり合わせていたこと、自分にしかできない自身のダルマという業が目の前に表出しているのに、面倒くさがりながら行ったり、嫌々行ったことによる反動だと分かる。
また、怪我をするという時間を通して、他のもっと別の怪我や何かから守られていることもある。
神聖な時間調整でもあるのだ。
筆者は最近、精神統一の一環として行っている壁を使用した倒立中に転倒し、膝を強打した。
すぐに起き上がることもできないくらいの倒れ方をしてしまったのだ。
痛みが優って起き上がることができず、しばらく倒れ込んでいた。
そしてゆっくり起き上がると、膝には切り傷と青あざ。
階段の昇降に限らず、膝を曲げると声を出してしまうほどの痛みが生じてしまったのだ。
けれど、痛みを感じつつも、その痛みに感謝した。
なぜなら、倒立前の自分の意識が原因だと感知したからだ。
倒立を何十年かぶりに始めた頃は、広い場所で時間に余裕を持ち、マットを敷いて呼吸を整えてから行っていた。
また、数秒から始めて徐々に数分と、倒立の時間を自分のペースに合わせて長くしつつ、場所を問わずいつでもどこでも意識を集中させ、隙間時間にでも行えるようになっていった。
その時でも今という瞬間に集中し、行為者主体を手放し、自分のために行うのではなく神の働きかけによって行うことになった縁あることに感謝し、倒立を通して精神を整える感覚そのものを高次元の存在に捧げ、委ねることができていた。
しかしながら、怪我をした時の思考はこうであった。
「私もなかなか長く倒立ができるようになってきたな。前回は○分だったから、今日はもっと増やそうかな。けれど時間が少し押しているし、ここは狭いスペースだから短時間にしようかな」
この言葉だけ見ると、自分の成果を客観視し、褒め、前回の結果よりもより上を目指すかのような前向きな言葉に見えたり、臨機応変に予定を変更しているように見えるかもしれないが、倒立を行っている本来の目的は精神統一。
誰に見せるわけでもなく、誰に自慢するわけでもなく、何分できたことを誰かと比べるために行うわけでもなく、自身の浄化のために行っている。
つまり、私の成果という「私」という行為者主体を持ち、尚且つ結果を求めている時点で煩悩潜在印象が残っているということであり、結果にこだわり執着しているということなのだ。
どのようなスペースでも倒立ができるようになっていたことに過信し、結果を貪り、なかなかできるようになってきたなと傲慢かつ自意識過剰になっていたのだろう。
だから神は、真理を悟らせるために怪我をさせてくれた。
私はそう感じ、日中は膝を冷やしながら仕事をしつつ、「これくらいの傷で済んでよかった、有難い」と思ったり、入浴中温めている時には、「いつも何不自由なく足が動くことに感謝だ、ありがとう」と言いながら痛みを受け入れた。
倒立での怪我に限らず、この人生そのものが供物なのだと、自身の浄化のために生きているのだということを改めて自覚し、徹底的に反省し、今を受け入れたのである。
怪我をしていようとしていまいと、いつどこで何をしていようと、魂の進化向上に最適なことが起こっている。
そこには優劣も善悪もなく、すべてが神の崇高な計らいなのだと感じ、幸せな気持ちに浸り、その気づきさえも捧げ切った。
すると神が合格をくれたのか、あれほど強打したにも関わらず、湿布や薬などを使用していないにも関わらず、翌日には痛みがなくなったのだ。
傷とあざは残っているものの徐々に薄くなり、お陰様で今でも倒立を続けられている。
自分を自分として創造し、今に生かしている存在を観知し、行為を行う背後にある、万物の根底を支え維持させているものを観知し、人生におけるすべての行為そのものを供物し、結果に囚われることなく今の自分がすべきことをする。
それこそが、自分を今にあらしめている自身のダルマであり、宇宙の流れとの共鳴。
神の計らいは、誠に不可思議である。
あらゆる瞬間に、魂の学修のために必要な崇高な気づきが含まれているのだと感じてならない。




