人の心というのは、実に面白い。

感覚器官を通して感じることを、損得勘定や見栄、固定観念、執着、欲望などのヘドロが付着した状態で、あれやこれやと無意識に判断しているからだ。

 

筆者は最近、自分でも笑ってしまうことがあった。

 

自宅の食器棚に、ほんの少し端が欠けてしまった楕円形のお皿があり、特に高価なわけではないのだが使いやすい大きさと色、形なので、欠けていても変わらず愛用し続けているものがあった。

 

まだ何の不自由もなく使え、欠けた部分が尖っているわけでもないため、手に持つ際や洗う際に気をつければいいだけと思っていたのだ。

 

だが何かの拍子に、同じ物を新しく買い替えようかと思った自分がいた。

 

急に何の前触れもなくそう感じたので不思議に思い、即行動をするのではなく、その思考をしばらく観察。

すると食器棚に導かれ、扉を開いて驚いた。

 

焼き魚などを乗せる際に愛用している長方形のお皿も、端が少しだけ欠けていることを思い出したのだ。

 

このお皿は有田焼で、それなりの値段がした。

旅先で偶然見つけ、絵柄も可愛く家族で気に入っているお皿なのである。

 

このお皿も先の楕円形のお皿と同様、何ら問題なく使えているが買い替えようと思ったことはない。

日々他のお皿と同様大切に扱い、その過程で欠けてしまったものだからと感知して扱っていた。

 

つまり、無意識に目を通して見ているものをエゴで感じ分けていたということ。

 

「どちらも欠けているのだから、どちらも買い直せばいいではないか」というのは違う。

この本題の趣旨ではない。

 

お皿の姿形、買った場所や買った時期、買った人や思い出という背景、素材や値段、お皿に付随する名前、この世的指標での希少価値などが違えど、お皿という物体に変わりはない。

 

生じ、やがては滅する一時的なもの。

人間と同じ。

 

この有限なるものを俯瞰し、完全に同等感を持って観れていなかったということなのだ。

 

買い直そうと思ったのはエゴの自分であり、魂の自分はどちらも初めから同等に観ていて、まだ使えると観知していたということ。

 

私は、ふと笑ってしまった。

何年も前の自分に比べたら、この世のあらゆるものを平等に愛おしく、平静に観、感謝し、万物の背後にある根源的実在を少しずつ観知するようになってきたけれど、こんなところで対立観念のヘドロが残っていたとは!

 

この気づきを得られたこと過程自体に感謝し、自分や万物を創造し生かしている根源的実在に、この気づきそのものを供物した。

 

 

今回はお皿であったが、誰かにもらったものでもあれ、日々起こるどのような出来事であれ、何でも同じこと。

有り難く受け入れ、中庸の精神で平静に観、すべての行為と結果を捧げ、委ね、導かれる。

 

心身を浄化し、意識の成熟、魂の進化、精神性の深化を続け、世の至高善のために奉仕し、魂の故郷に帰るに資する言動をする。

 

そのために生まれてきたのだという自覚が、日々年々強まっている。