人間は、人と人との間を生きるから人間なのだ。

 

という言葉が、名言として取り上げられているのを目にした。

 

確かに素晴らしい言葉だと思う。

人間同士が助け合い、支え合い、互いを尊重し合う調和のとれた関係性ならば、まさに人間は、人と人との間を生きていると言えるだろう。

 

私はこの名言を見た時、感動だけで通り過ぎることができなかった。

 

なぜなら、人と人との間を生きるから人間ならば、動物や植物はどうなのかと思ったからだ。

 

動く物が、動物。

動物は、物なの?

 

植えられた、または植えた物が植物。

植物は、物なの??

 

人間を含め全生物は、海の植物プランクトンと森林が光合成によって成した酸素の恩恵に与っているし、

 

動物がいるお陰で、人間や他の動物も含め肉を食べることができているように、切っても切り離せない関係性であらゆるものが繋がり、支え合っている。

 

常に互いの構成要素となりながら、生じては滅しまた生じるという崇高な流れの中にいて、姿形や名称は異なって見えるけれど、本質的には皆宇宙の構成要素であり、究極的視点で観れば上も下もない。

 

人との人との間を生きるから人間という名言は、人との間だけで生きることに限定されてしまっている気がする。

 

 

そう私が感じたことや、人間は人と人との間、と認識することは、nāma-rūpa だ。

 

 

この世に存在するものを、言葉を介して個々別々に認識することを nāma-rūpa(ナーマ・ルーパ)という。

和名で名色。

 

ナーマは精神、

ルーパは物質を意味する。

 

つまり、それを “それ” と認識するための器全体を指す。

 

nāma-rūpaがあることで、人はあらゆる物事を識別したり、各々の性質を理解することができているのだが、その反面、言葉や見た目、言葉に付随したイメージに囚われすぎてしまうという欠点があるのだ。

 

人間を人と人との間と認識することは、まさにnāma-rūpa 。

 

この名言自体はとても素晴らしいと思うけれど、言葉により生じたnāma-rūpaに固執せず、もっと広くあらゆることを観なくてはいけないと思う。

 

例えば、人間だけが良ければいいとか、人間の中でも自分だけが、自国だけが、自社だけが、自分たちだけが幸せで裕福であればいいという狭い視野で生きるのではなく、皆で豊かさを分ちあう世界であるようにしなくてはならない。

 

また、森林を保護したり、動植物がそれぞれにとって心地よく暮らせる環境を整え続けることも、人間の役目だと感じるのだ。

 

人と人との間だけに限らず、人間は思考活動と言語活動、行動が自由にできるのだから、万物がそれぞれにとって心地よく、豊かで幸せであれるよう計らはなくては。

 

 

人間だけが快適で心地よく、欲望のままに生きる時代や、人と人との間だけに意識を向けてエゴを突き合わせ、優劣を付け合うことは、もうそろそろ終わりにしなくてはならない。

 

人間は私利私欲を何でも満たせる行為者主体に見えて、食物連鎖の頂点にいるように見えて、自然界によって生かされているのだから。

 

人間がいつまでも人間中心で生きていると、いずれは自然界の自浄作用により、絶妙なバランスの崩壊が起こる。

そうなれば、人間など一撃で消滅することだろう(その前に、人間が自ら作り出した兵器や武器で自滅する可能性の方が高いが)。

 

 

目に見える形態や名称に囚われて物事を判断せず、その奥にある、目には見えないけれど確かに存在する万物の根底を司る一点を観れる人が一人でも増えたなら、

 

万物がそれぞれ生まれ持った業を果たし合う

真に調和のとれた世界になっていくことだろう。

 

 

私が今できることは、

神の働きかけで降りてきたこの信念の言葉を

 

臆せず表現することだ🍀

 

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