自分が何に対して、喜びや嬉しさ、幸せを感じるのかは、自分が一番分かっているものである。

音楽を聴きながら曲を口ずさんでしまったり、音程に合わせて自然にリズムを取ってしまうのも、自分にとっての心地よさを選べているサインだ。

 

内なる神が喜ぶ感覚を優先させることは、内なる神を尊ぶ行為そのもの。

何より、あなたの内なる神は、あなたが心から幸せを感じている瞬間が大好きだ。

 

けれど多くの場合、その神聖さを抑え込んでしまう。

 

例えば、自分が好きな曲に合わせて踊ったりリズムを取っている時、その姿を見た人に何か否定的なことを言われたり、苦笑いされたことで、その行為自体を躊躇するようになってしまった人がいるとする。

本来なら、周りの価値観という外側の周波数よりも、内なる神による内側の周波数を優先させていいのに、自尊心が傷つくことにより、内なる神の声を表出させることを自我(エゴ)で拒んでしまうようになるのだ。

 

家族であれ友人であれ、仕事関係の人であれ、誰であってもその人固有の内なる神聖さを否定する資格はない。

そう分かっていても、「普通はこうあるべきだ」「一般的にはこういうもの」「常識的にはこう」「あなたの年齢ならこうすべき」「あなたにはまだ早い、あなたにはもう遅い」「男ならこう、女ならこう」「あなたには似合わない」などという周りのエゴによる視点での声を無意識に優先させてしまうのだ。

 

また、怒りや悲しみを感じても、それを解消させずに何かで取り繕ってしまったり、外側の周波数によって乱れた内なる波を自ら整えることもなく、その乱れを私利私欲で覆い隠してしまうことすらある。

 

エゴによる欲求を満たす経験も、魂の学修には必要な過程だ。

今ここで、自分という存在を認識できていることや、喉が乾いた時には飲み物が入ったコップを手に取り、口に運ぶ行為ができるという生命活動に必要なことができるのもエゴのお陰。

 

けれど、内なる神の声をエゴで抑え込んでいては、いつまで経っても心から満たされることはないだろう。

 

エゴの自分にとっての心地よさではなく、真の自分にとっての心地よさ、つまり内なる神の崇高な波動域をいつでもどこにいても、どのような時でも自分で保てるかどうか。

日々起こる出来事を通して内なる波の動きの変化を感じつつも、その時々で柔軟に、自分にとっての心地よい波動領域に自分で戻せるかどうか。

 

ここが、エゴの声を優先させるか、内なる神の声を優先させるかの分かれ道だ。

 

自分にとっての心地よさにいるというのは、弱いわけでも受け身なわけでも、惰性でもない。

コンフォートゾーンを越えられていないわけでもなく、マインドセットがされていないわけでもない。

 

むしろ、この世に表出している無数のエゴ(アハンカーラ)の上にある創造的叡智、そして万物の根底を支えている宇宙意識の波動領域と共鳴することそのもの。

 

エゴの奴隷としての行為に無意識に促されることから解放され、今世この人生として生まれたお役目を果たせるようになるということなのだから。

 

 

あなたという真の魅力は、あなたが心から幸せを感じることを行っているまさにその時、全開で解き放たれている。

 

周りの目を気にした態度を取ったり、自分を取り繕ったり、承認欲求よりなるエゴの好みでの選択ばかりしていると、内なる神は悲しむ。

あなたという人生を介して、あなただからこそ放てる光をこの世で輝かせるベく内なる神はあなたを創造したのだから、自信を持ち、他の誰がどうこうではなく、あなたが何をしている瞬間のあなた自身が好きで、心地よいのかを選べばいい。

 

それこそが、ありのままのあなたであり、内なる神との合一。

損得勘定や見栄ではなく、心から選ぶ行為そのものが、内なる神の声の表出だ。

 

エゴの自分で100年生きても、それは空(から)でこの世に来、空でかえるようなもの。

真のあなたで生きたなら、この世を去る実年齢が幾つであれ、天命を全うしたことになる。

 

内なる神が喜ぶことをすればいい。

 

内なる神は、あなたがあなたという光を全開で解き放ち、幸せを体現することをずっと待っているのだから🍀

 

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