
社会の秩序や規律や規範という、社会を『社会』たらしめるものがある。
一人ひとりが生まれた場所や育ってきた環境、今住んでいる所や所属している何かによって、決まりやルール、指針や指標が多数ある。
また、世の中の知識や技術も無数にあるだけでなく、普通はこう、一般的にはこう、基準はこう、標準はこうなどと、秩序を保ち画一化させるためのものが数多存在する。
これらに従って生きることも、それはそれなりに大切なことではある。
しかし、自分を『自分』たらしめる自身のダルマ(業)は、自分を内側から突き動かす魂の炎。
これを外側の枠に無理に合わせすぎてしまうと、生まれながらにして自然に進化向上しようとしている“真の自分”である魂の声がかき消され、無意識に自分ではない自分を生きるようになってしまう。
つまり、エゴの自分になってしまうのだ。
見栄や執着によって無意識に固定化された観念は、自分自身や他者を見る目の許容度や受容度、自由度、価値観を縛り付け、曇らせていく。
身近な例をいくつか挙げてみよう。
食事を一日2食にすると調子が良いと、直観で感じている人がいるとする。
五感による直感だけでなく、魂の声としてそう感じているということだ。
自分の体調を自分で律し、常に俯瞰して観、自分に真に合う食べ物やリズムを選べている人。
この人が、誰かの意見や価値観、周りの目や、世間の指針や指標を気にしてしまうと、自分は一日2食の方が調子が良く快適だと分かっているのに、「一日3食、何時間空けて規則正しく食べましょう」という枠に無理やり自分を合わせてしまうのだ。
確かに、規則正しい生活は大切だ。
研究により証明されたことや、多くの実験で検証されたこと、長い年月をかけて培われてきた物事には、人生を快適に過ごす上で参考になることがたくさんある。
食事に、新鮮で栄養価の高い食材を五色取り入れることで健康になる(陰陽五行説に基づく)という叡智も素晴らしいものだ。
けれど、一日3食という数字や、何時間感覚で食べるという数字、お腹が空いているわけでもないのにお昼の時間だからと食事をするなどという社会の枠に、無理に縛られる必要はないのである。
世の中には、一日5食食べる人もいる。
3食の内、1食を栄養ドリンクやナッツなどで済ませる人や、3食すべてを果物にしている人もいる。
つまり、自分の身体に合ったもの、自分のリズムに合ったもの、自分の調子が整うと感じるものを純粋に選ぶことが大切なのだ。
これを、見栄や誰かに自慢するためという承認欲求、優越感に浸るなどの我欲のために行なっているのでは本末転倒だが、誰に見られていようと見られていまいと、自分に合うものを直観で分かっているのなら、それを堂々と選べばいいのである。
他にも、「一日、何時間睡眠を取りましょう」という指標があったとする。
けれど、自分はその科学的視点で得られた時間に加えて、もう数時間寝る方が調子が良いと思うのなら、それを臆せず選ぶことだ。
健康に良いから、脳に良いからなどと言われた数字に無理やり自分を合わせすぎると、その反動が必ず出る。
なぜなら、有限なる心と体の複合体に宿る魂は、その人の人生にとって最適なものを既に知っていて、それが外側にある社会の指針や指標に合致するとは限らないことも知っているからなのだ。
「これは自分に合う感じがする」「これは違和感を覚える」などという感覚を通して、魂は内側からいつでも真の指針を示してくれているのだが、その神聖な声を聴かずに社会の枠に自分を押し込め続ければ、反動があるのは訳合なのである。
視野を広げると、一日2〜3時間の睡眠や、日中に短時間眠るというショートスリーパーで長年健康に生きている人もいれば、一日12時間の睡眠を確保し、世の至高善のために奉仕し活躍している人もいる。
このように、自分を自分あらしめる自身のダルマを行うことは、社会を社会たらしめる社会のダルマを行うより、比べようもなく優れているということ。
何でも同じだ。
こうでなければならない、こうであるべきだ、普通はこう、一般的にはこう。
こういうものだから、長年こうだから......
そのような社会を『社会』たらしめる社会のダルマに自分を無理に合わせても、自分を『自分』たらしめる自身のダルマを行なったことにはならない。
社会のダルマに合わせて魂の声を聴かず、この世的な表面上真っ当に生きたとしても、自分を自分たらしめている業を果たしてはいない。
今世生まれた真の目的、自分を自分として創造し生かしている次元を超越した存在の計画、自分を自分あらしめている天命を果たすには、自分の中で感じる崇高な感覚を尊重することが欠かせないのだ。
社会のダルマに合わせる必要がある場面でも、自分の確固たる信念を持ち、誰が何と言おうと、揺るがない自分の感性を貫きながら物事を同等に観、
高次元の存在に由来する、唯一無二の自分という存在に備わる魅力と才能を、直観に従いながら臆せず全開で表出させること。
それが、自身のダルマであり、自分を今にあらしめた目的を果たすことそのもの。
何をしているか、ではない。
何をしてきたか、でもない。
今、どこに意識を向けているか。
自身の業を行うかどうかは、意識がどこを向いているか次第。
それを行うに至る直観は、あなたを『あなた』たらしめる神聖なものなのだ。
エゴの自分を見て、仮初の情報に塗れながら束の間の幸せに浸って生きるのか。
魂の自分を観て、永遠不滅の揺るがない根源的実在と合一し、安心と幸福と共に生きるのか。
それは内側でのことなので表面的には見えないが、無常の世におけるこの人生を終えた先にも繋がっていく選択なのだから。




