神のお試しとは、一見嬉しいお誘いや出来事などを意味する。
神のお試しが来る時、私はいつも以上に物事を冷静に見るようにしている。
それに動じないかを見られているからだ。
正当な方法でのギフトなら、臆せず受け取っていい。
しかし、どうも気になることがあるとか、つっかかるものがあるとか、すんなりと受け取るのを拒む自分がいる時には、それが正しいのだ。
なぜなら、その内なるスパンダという引きは、魂の声だから。
魂の声というのは、神の声そのものでもある。
例えば、「出版をしませんか」「雑誌に掲載しませんか」といったものがある。
何かしらの活動を通して声を掛けてくれることは有難い。
しかし、よくよく拝見すると、「手数料がかかります」「出版料がかかります」「掲載料をご負担いただきます」と記載があるのだ。
わざわざ声を掛けておいて料金を頂戴するという形式が、私にはどうも理解不能なのだ。
声を掛けた方は、全くのノーリスクで仕事ができることだろう。
それが売れようが売れまいが、既にフィーを得ているからだ。
広告料を払ってでも宣伝したいと思っている人にはいいかもしれないが、それで掲載されたとしても決して「〜誌に掲載されました!」という経歴にはならない。
むしろ、「〜誌に掲載していただきました!お金を払って」というのが本音だろう。
確かに雑誌を開いた最初のページに、見開きで広告を出している会社もある。
しかし、それはその会社がその媒体を通して宣伝したいからお金を払っている。
そうしたいのならば良いが、そうでないのなら、まだその時期ではないということ。
自費出版が悪いわけでもない。
お金を払ってでも世に出したい書物があるのなら、素晴らしいことだ。
フリーマケットや個展などで出展する場合も同じ。
場所代がかかったとしても、その先にやりたいことがあるからお金を払うのだ。
このようなお試しがあると、私はあらゆることを思考する。
例えば、俳優が映画に出演する時、監督は俳優に声を掛けたり、オーディションを通して俳優を選ぶだろう。
そして、正当な方法ならば出演料を渡すはずだ。出演者に。
「今度撮影する私の映画に出演してほしい。けれど、出演にはいくらいくら掛かる」と言われて、いい気がする俳優がいるだろうか。
何がなんでも出演したい人ならば挑戦するのだろうが、正当な方法とは思えない。
自分の宣材写真を撮ってほしいと思っている人がカメラマンに対して、「あなたに私の撮影をお願いしたいです。ただし、私を撮るにはいくらいくら掛かります」と言っているようなものだ。
カメラマンからしたら、「?」だろう。
あなたの人生でも、一見有難いお誘いや嬉しい出来事が起こったとしても、心の中でザワつきや落ち着きのなさを感じた時、それは神のお試しだ。
ひっついてくるかを見られている。
ここで冷静に物事を俯瞰できた時、神は正当なご褒美をくださる。
いつでもそうだ。神は、万物の源だから。
宇宙と調和した正当な方法で、あらゆることを常に秩序正しく循環させている。
だから、正当でないルートを選んだり、魂の声とは反対の行動をしてしまうと、運よく一時的に利益が出たり有名になっても、それは幻夢と気付かされてしまうのだ。
どこかのタイミングで調整されるようになっている。
一人ひとりの魂にとって必要なこと、一人ひとりの人生にとって必要なことは、神の恵みの深さを通して満たされていくもの。
神の崇高な流れに順応していれば、調和しない物事には必ず内なるスパンダが起こる。
それを無視せずに見つめて捧げ返すことで、神の不可思議力による豊かさと愛に対して、「私は正当な方法で、あなた(神)の豊かさを受け取る準備ができています。あなたの豊かさを届ける準備ができています」という意思表示になるのだ。
あなたという存在を成した神は、外側だけの存在ではなく内にもいる。
生まれた時からずっと、あなたを守り導いている。
あなたの魂の声として。
けれど、あなたが今世抱えている煩悩や宿業(履修課題であるカルマ)によって、度々神のお試しが起こる。
そこで合格できると、次の環境に導かれたり、恋焦がれていたものを享受できるのだ。
合格できないと、何度も何度も手を変え品を変え、あなたの魂が成長するまであらゆるお試しが起こる。
人によっては、試練と思えることが起こる。
ここで、今までの自分ではない対応ができることが大事。
この世のあらゆる出来事が、神の秩序の元にある。
そしてその神聖な声は、いつでもどこでも、誰の中にも響き渡っている。
声を聴くかどうか。
人智を超越した崇高な流れを感じ取り、万物を成した背後の存在のみが究極の源であると真に自覚できた時、神のお試しがあっても、楽々と合格していけるようになるのだから🍀