古代インドの経典に「ヴァイラーギャ」という言葉がある。
これは無執着という意味で、中立、中庸、受容の精神で、何事においても平静に陰陽のエネルギーバランスの間に自ら戻るということだ。
良い悪いも、賞賛も批判も、成功も失敗も、歓喜も喪失も、それを感じ分けているエゴを超越し、背後にある一点を感じ取る。
どのような場面でも、このヴァイラーギャに至る意識が確立されてくると、あらゆる迷いや悩み、不安といった心の動揺から解放されていくようになる。
どれほど褒められたり、表彰されたり、目に見える形で何かを得たり達成しても、そこに執着しなくなる。
嫌だなと思うことや、辛い悲しいと感じることがあっても、そこに執着しなくなる。
すべてが神のものだから。
思いっきり喜んだり、幸せを感じたり、悲しんだり、怒りを感じるなど、感情は偽らず素直に感じていい。
感じた後、そこに執着しなくなることがヴァイラーギャ。
すると、いつまでも過去の栄光に縋ることもなければ、いつまでも過去の失敗を嘆くこともなくなっていく。
毎瞬が、自分の魂の成長に必要な意味のある過程であり、繋がるべくして繋がっていて、自分を今世に成した存在である神への捧げもの。
「私」という感覚を捧げられるようになることで、悩みや重荷がどんどん軽くなっていくのだ。
ヴァイラーギャを続けることは、神への祈念、神の流れに身をゆだねることを意味するイーシュヴァラ・プラニダーナにも繋がっている。
エゴは何かを創造したり一時的に何かを獲得しても、今度はそれを失うことを恐れる習性がある。
目的のものを得るまでに奮起奮闘し、得た瞬間にその対象への欲や興味関心が薄れ始め、次なる煩悩へと駆け回り苦楽を繰り返す。
欲があるのは極々自然なことであり、それは普通だ。
このブログをご覧になっている波動領域の高いあなたには、今世、その先の学びがある。
それは、あなたが日々体験することや感じる感情はなんであれ、あなたを創造した神への捧げものだという視点を知ること。
エゴでは成し得なかった神の崇高な流れを体感することだ。
どのような願望も、どのような羞恥も、どのような歓喜も、どのような喪失も、神への捧げもの。
楽しいことや嬉しいこと、幸せなことは永遠ではない。
逆に、辛いことや悲しいこと、大変なことも永遠ではない。
いつどの時代に、どこで何をしていても、ヴァイラーギャを実践するほどに、あなたが何者なのかを悟るようになる。
なぜ、今ここに生きているのか。
それをあなたの内側で、真に感じられるようになっていく。
すべてが、神への捧げもの。
あなたが万物の源に対して奉仕するほどに、心身が軽くなり、煩悩や宿業(今世の履修課題であるカルマ)が解消されていき、悩みから解放され、あなたの空いた空間に更なる幸が舞い込んでくるようになる。
エゴの制約では考えもしなかった幸だ。
その幸にも執着せず、あなたから与えられるものを惜しみなく与え、あなたが得るべきものを臆せず受け取る流れに順応することは、神の愛そのもの。
あなたは、神の豊かさを運ぶ神の化身。
生まれた時からずっと、あなたは豊かでいるに値する存在なのだ。
すべてが神への捧げものという視点で物事を見るようになると、あらゆる見え方や感じ方が変わってくる。
相手への接し方、癇癪を起こしている人への対応、自分自身への接し方、今、目の前にあるすべてが神聖になる。
万物を成した、大きな大きな愛を感じられるようになっていく。
その愛の一部としての恩恵を、神の崇高な流れの中で身をゆだねることにより、存分に味わえるようになっていく。
そうしているうちに、気づけばあなたに起こる出来事も見違えるほど変わっていくのを目の当たりにするようになるのだから🍀