人の判断基準というのは、実に奇妙だ。

同じ年齢でも捉えられ方が異なるからである。

 

例えば、50歳の男性が独身の場合、「まだ独身なの?」「仕事は何をしているの?」「自由気ままでいいわね」などと、どうでも良い声が聞こえてくる。

しかし、50歳で亡くなったとなれば、「○○、50歳の若さで死去」「まだまだ、やりたいことがあっただろうに」などの言葉。

 

同じ50歳なのに、どの角度から見るかで年齢に対する反応が変わっているのだ。

 

これは、見ている側の問題に過ぎない。

こうでなければならない、こうあるべきだ、普通はこうだ、一般的にはこうだなどという固定観念に囚われ、実年齢という目に見えるものの奥にある魂が観れていないことにより生じているのである。

 

実年齢が幾つであろうと、信念を持ち己の今世の責務を全うしたのなら、魂が身体を抜け出る時が何歳であれ有意義な人生を過ごしたことになる。

 

結婚していようと独身であろうと、何歳で結婚しようと、子供がいようといまいと、子供が何人であろうと、どこに住み何をしていようと、魂の声を全開で表出させて生きたのなら、天命を全うしたことになるのだから。

 

これは、この世的な目線で言っているのではない。

この世的な視点でいる限り、例題にも挙げたどうでも良い反応しかできないことであろう。

 

 

目に見えるものがすべてではなく、

実年齢と魂の年齢は一致しない。

 

他者が外側から見ている相手の姿は、その人のほんの一面にしかすぎず、その者の持つフィーリングや感性やこだわりが、すべて常に表出されているわけではないのである。

 

 

誰にでも、尊い時間が流れている。

 

人生には速いも遅いもなく、正解不正解もない。

 

宇宙の神聖な流れより生じた価値ある瞬間が、そこにあるだけなのだから🍀

 

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