自分の命のことで、何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 

身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みふかく、行い正く、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、バラモンともいうべきである。

 

ただ単に身体、意志器官、知性器官、感覚器官だけで、ヨーギーたちは行為を行う。

執着を捨て去って、自分自身の浄化のために。

 

 

宇宙の真理を探究し、人間として生まれた究極の業である、潜在印象を浄化し根源的実在に回帰するという責務を成し遂げた賢者たちは、古今東西表現の仕方は違えど、本質的には同じことを教示していることが分かる。

 

この世的な感覚器官を満たす一時的な物事に執着することなく、自分がすべきことを無心に精一杯行い、行為と結果を供物しているからこそ、潜在印象が浄化され宇宙の流れと共鳴し、その者の人生にとって必要なことが自然に与えられるということなのだ。

 

多くの人は、結果に執着して行為を行う。そして更なる煩悩潜在印象を積む。

賢者は、結果を気にすることなく、自分が行うことになっている行為自体に集中する。だから、煩悩潜在印象が浄化されるのである。

 

万物は皆、至高の源から生じている一時的な現象。

つまり、何を食べるかや何を飲むかで思い悩んだり、どのような格好をしようか、あれも欲しいこれも欲しい、もっとこうでありたいと貪る必要は、本来ないのである。

 

自分と認識している一時的な姿形の奥にある本性は、根源的実在より生じた豊かさそのもの。

既に充分満たされている至福そのものなのだから、自我(エゴ)ではなく真我(魂)の欲する物事を欲すればいい。

 

もしもこれを覚知しなければ、知らぬ間に、欲の底なし沼であるエゴの奴隷となっていく。

この世的な欲望のものが手に入れば狂喜乱舞し、手に入らなかったり失うと悲嘆し激怒し、どのような手を講じてでも邪魔者を排除して、我欲を満たそうと執着するようになる。

 

そして、どんどん煩悩潜在印象を己の中に積み上げ、神の国から遠ざかってしまうのである。

 

神の国とは、現世利益的神のことではない。

果報が尽きたら現象世界へと戻らなくてはならない天界のことでもない。

 

万物の根底を支えている、根源的実在のことを示しているのだ。

 

ここを読み間違えると、上記の神聖な言葉に含まれる真理を観知できず、目に見える無常の現世利益を貪り続けるようになることだろう。

 

 

真理がそこにあっても表面的なことしか見えず、背後にあるものを観ようとしなければ、それは存在しないも同じこと。

 

人間として真にすべきことは何なのか。

有限なる時間の中で、本当に私利私欲を満たすという我欲だけで生きていいのか?

 

古代の経典には、自分とは何者なのか、どう生きればいいのかという人間としての究極の問いの答え、そして自己探究を行うための叡智、さらには宇宙の根源的な真理までもが秘められている。

 

それは、この世的な数多ある知識や技術の根底をも成す神聖なもの。

 

 

幾生もの転生の中で、人はあらゆる人生を通して魂を進化向上させ、最終的には真理へと向かっていく。

 

今、あなたがこのブログを読んでいるのは、真理を体得する段階に来た魂だからこそ。

堂々と自身の業を果たし、潜在印象を浄化し、輪廻を脱して根源的実在へと回帰すべく学修を始める時だ。

 

平静、(感覚器官の)自制、苦行(自身の浄化における)、清浄、実直(誠実、正直)、真知(真理の知識を得ること)、識別知(真知の実践知識を得、智慧とすること)、敬神は、バラモンの責務(カルマ)なのだから。